ベルナール・ビュフェ 1949年撮影
アナベル夫人
油彩画 1959年

ベルナール・ビュフェについて


ベルナール・ビュフェ(1928-1999)は、黒い描線と抑制された色彩によって第二次世界大戦後の不安感や虚無感を描出し、世界中の人々の共感を呼びました。その虚飾を廃した人物描写は、当時の若者に多大な影響を及ぼしたサルトルの実存主義やカミュの不条理の思想の具現化として映り、ビュフェ旋風を巻き起こしました。具象画壇の旗手となったビュフェはベルナール・ロルジュやアンドレ・ミノーとともに、新具象派あるいはオムテモアン(目撃者)と呼ばれ、1950年代半ばには日本でも頻繁に紹介されました。日本の美術界は抽象画全盛の季節を迎えていましたが、ビュフェの黒い直線と強烈な表現に衝撃を受けた芸術家は少なくありませんでした。以来、半世紀以上の年月が流れましたが、現代のアートシーンにおいてもビュフェの存在感はゆるぎないものとなっています。

ビュフェは「私は絵を描くことしか知らない」「絵の中に自分自身が埋没してもよい」と語っていました。絵を描くことに人生のすべてを捧げていたのです。
そのようなビュフェの生涯を通じて、影響を与え続けた女性がいます。1958年、ビュフェは30歳でアナベルと結婚しました。ビュフェはアナベルの豊かな才能や表情に魅せられ、創作活動において多様な表現を試みました。モノトーンの画風から多くの色彩を使うようになり、以前よりも絵に明るさが加わったのもこの頃からです。アナベルは、ビュフェにとって生涯の女神(ミューズ)であり、彼女をモデルにした作品も多く残っています。

ビュフェは当美術館を愛し、生前にはアナベル夫人とともに7回の来館を果たしました。1996年5月、版画館がオープンした際の来館が最後となりました。そのとき、ビュフェは、次のような言葉を残しています。
「素直な愛情をもって、絵と対話してほしい。絵画はそれについて話すものではなく、ただ感じ取るものである。ひとつの絵画を判断するには、百分の一秒あれば足りるのです」。
声(挿画本) 表紙
ドライポイント 1957年
私のサーカス(挿画本)から曲芸師
リトグラフ 1968年

ビュフェと版画


ベルナール・ビュフェは、終生さまざまな芸術表現に挑み、その才能を遺憾無く発揮しました。油彩画と併行して取り組んだ版画では、珠玉の作品を生みだしました。パリで名声を得た画家の多くが自然とその道を極めたように、ビュフェもパントル・グラヴュール「画家にして版画家」となり、ドライポイント(銅版画)とリトグラフ(石版画)を手がけています。なかでも、銅板に鋭い刃物で直彫りし、その凹面にインクを詰めて紙に刷るドライポイントは、「線の画家」とも呼ばれるビュフェの鋭角的なフォルムの表現に適していました。ビュフェの精神性が強く反映された作品が多くあり、挿画本『純粋さを求めて』(ジャン・ジオノ原作)、『マルドロールの歌』(ロートレアモン原作)、『声』(ジャン・コクトー原作)は、ビュフェ芸術と文学作品が融合した傑作です。一方、リトグラフは水と油の反撥作用を利用した技法で、明るい色彩と伸びやかな線が織り成す洗練された表現が特徴です。「パリ」シリーズや「ニューヨーク」シリーズ、挿画本『私のサーカス』は人気が高く、版画においても不動の地位を確立しました。